今月の記事 ピックアップ   2004.8
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道程シリーズ 第5回 (株)ニューステップ相談役
中 村 岐 雄(なかむらみちお)の道程
行くところ師あり
(題字は筆者)
 
   

その1 サラリーマンとしての第一歩

はじめに

 偶然のままに靴屋になって、43年。サラリーマンとして歩んだ人生は、一方では商売人としての道程でもありました。行く先々での数多の人との出会い。進路を悩んだ時、また足が止まりそうになった時の、有益な一言。それらが支えとなり、今の私を形作ってくれたように思います。
『行くところ師あり』とは、決して言葉だけのことではありません。導いてくれた多くの先達への感謝と、人間は一人では生きられないという実感を込めて、この記録に冠したいと考えたのです。
 現在の私は、勤め人としての道を歩き終え、もう少しフリーな立場で靴とのつきあいを続けています。本を出したり、専門学校の講師をしたり、思わぬ方向に新たな活路が開けました。
 岐雄(みちお)という私の名前通り、人生に岐路は至る所にあり、そして行くところ師は必ず現われるのです。
三愛に入社

 私の生家は、絵描きになりたかった父が開いた『誠美堂』という画材店です。戦前は大森にあり、洋画家の林武さんや野口彌太郎さん、池辺均さんなどの良いお得意様を持ち、結構繁盛していたと聞いています。しかし昭和16年、私が小学校3年生の時に戦争による強制疎開で青梅に移り、以後は青梅を故郷に育ちました。
 私が社会に出る頃には、父は銀座や池袋、また松坂屋や東急百貨店の中に店を出すまでに規模を拡大。何の疑問もなく店を手伝い始めたのが、最初の仕事体験でした。それが3年も過ぎた頃でしたか、父が「一度、他所の勉強もした方が良い」と言い出し、且O愛に入社することになったのです。
 いきさつは、当時“チャーチル会”というかなり盛んな油絵の愛好会があり、そこに父が画材を売っていたのがきっかけ。親しくしていたメンバーの中に三愛常務だった森野さんがいらして、人事にご紹介いただきました。


三愛宣伝部時代の筆者
この入社時には、忘れられないエピソードがあります。実は私には5歳の時の交通事故で顔に傷があり、これが怪しげなものに見えたのか、医者の証明書を出すように命じられました。時あたかも、石原裕次郎が大スターとなった太陽族の時代。大人たちが不良と眉をひそめるような若者風俗が日本中を席巻していて、私もそんな若者の一人として、遊び人風な雰囲気を漂わせていたのかもしれません。いや、年相応に楽しんではいましたが。

 とにかく治療してもらった前田外科医院に行ったところ、20年以上前の交通事故なのにカルテがきちんと保存されていて、無事証明書をもらえました。もしこれが、人に言えないような理由で作った傷だとしたら、三愛には入社できなかったかもしれない。人生、大きく変わっていたかもしれません。
市村社長の訓示

 昭和34年、私は三愛の入社式に臨みました。訓示をされたのは、当時の市村清(故人)社長。リコー三愛グループの創業者である氏は、経済界の中でも異色のアイディアマンであり、また進歩的な経営者としても知られていました。
「もち竿で雀を獲る時は、直接つけても、離し過ぎてもいけない。ほんの少し離して、もち竿を出せば獲れる。商売も同じ」。概要としては以上のような話しでしたが、これは心に残りました。私も実際に雀を獲った経験があったため、すぐに分かったのですが、市村さんの言葉は真理です。もち竿を離し過ぎはもちろんですが、くっつけようとすれば逃げられてしまう。そっと側に竿を寄せ、逃げられる前に引っ掛けるのがコツなのです。
 消費者が、今求めているものをダイレクトに訴求するよりも、ほんのちょっと先を狙う。けれど、先過ぎてはダメだということの例え話です。その実例には、氏が考案した西銀座デパートの“お好み食堂”が挙げられるでしょう。
 それまでのデパートの食堂といえば、ウインドーに和洋中の全メニューがそろった大食堂。そこに各々の専門店、しかも天一をはじめとする銀座の名店を並べた食堂街を作ったのですから、人気は推して知るべしです。以来日本全国に普及したわけですが、その頃の業態論からすれば、実に先駆的な発想でした。
 残念ながら、社長と平の新入社員とでは直接的な接点はなく、親しくお話しする機会も持てないままでしたが、この訓示を聞けただけでも出会った甲斐はあったと言えます。後に自作の川柳で、「一歩じゃない、客より半歩先を行け」と詠んだのも、商売人としての私の原点となった教えだったため。心密かに師と仰いだ、大きな人でした。
多士済々の宣伝部

 入社後配属されたのは、宣伝部でした。多分、森野常務がポスターカラーなどの画材と結びつくということで選んでくれたのではと思いますが、私が『誠美堂』でやっていたのはキャンバスを張ったり配達したりが主でしたから、宣伝はまったくの素人。最初は本当に、ただのお手伝いという感じでした。
 ラッキーだったのは、あの頃の三愛宣伝部は、そうそうたるメンバーで構成されていたことです。たとえば、後にアクリルを使った椅子制作などで世界的インテリアデザイナーとして名を馳せた、倉俣史朗(故人)さん。現・長岡造形大学学長の、鎌田豊成さん。そして筆頭は、伊藤精二(故人)部長の存在です。知る人ぞ知る色のスペシャリストで、板マネキンの発明者。パリ祭セールも、氏のアイデアでした。


板マネキン発明者の伊藤精二宣伝部長
板マネキンというのは、人体を象った板を十分割し、各パーツを金具で留めたものです。これに服を着せるのですが、実にファッショナブルで新鮮な効果を上げていました。またパリ祭とは、フランスの本家をもじった、オシャレ心をくすぐるネーミング。銀座らしい華やかさを演出した、セールのPRとしては画期的なものでした。
 本人自身がとても遊び心のある人で、4丁目店のショーウインドーにスカートをぶら下げ、足として大根をあしらったデザインは、強烈な印象で今でも忘れられません。これは話題になりましたが、後で宣伝部全員が三愛社長だった市村夫人に叱られました。ユーモアとして笑ってくれたお客様も多かったかわりに、女性を愚弄していると不愉快に感じた方もおられたようです。
 
 他にも、私が入社した昭和34年は皇太子様・美智子様御成婚(現・天皇陛下・皇后陛下)の年でもあり、当日は伊藤部長の指示でウインドーにテレビを数台並べて、パレードの中継を放映。結果は予想以上の、まさに黒山の人だかりで、宣伝部の皆で身体を張ってガラスを守った思い出もあります。
 ウインドーといえば、当時は銀座周辺のほとんどの映画館に宣伝ウインドーを持っていたので、入場はフリーパス。見回りを名目に、よく映画をタダ見させてもらいました。思えば、古き良き時代。仕事半分・遊び半分が、かえっていろいろな意味で、自分の中の引き出しを増やしてくれたように感じています。
宣伝部の日々

 私個人の一番大きな仕事は、DMの名簿管理や発送の手配でした。今は機械で印刷するところを、昔は謄写版に宛名を書き入れて、カッチャンカッチャンとカードに刷っては貼る作業の繰り返し。しかもそれが、3万枚はくだらないという枚数です。
 この名簿の仕分けを効率化させたのが、三愛における私の業績と言っても良いかもしれません。それまで名前で仕分けしていたため、仮に東さんならアズマ=Aとヒガシ=Hの両方に、時よって分類されてしまう。重複発送が多くて無駄が多かったのを、住所で分類することで解決したわけです。
 また名簿は管理するだけでなく、更新する必要があります。当時の三愛のターゲット層は、高校を出て2年くらいまでの18〜20歳の女性。低価格・ハイファッションを売りにしていました。したがって、高校の卒業生名簿というものが重要で、これを集めるのに苦労したものです。学校から入手できないものも多いので、結局都内の区役所を全部回り、住民台帳(当時は、閲覧させてもらえました)の生年月日から拾っていく。毎年、1万人は集めていました。
 そして3月初めの卒業直前に、彼女たちにDMを出します。コングラッチュレーション! と。さらにDMを持って来店した方すべてに、陶器の『たち吉』の“すみれの小皿”プレゼントを企画。これは大変な人気で、DM回収率40%を記録した時には、私自身大きなやりがいを感じました。
“すみれの小皿”はその後、お買い上げごとのスタンプで様々なすみれ柄陶器を差し上げるという、『すみれ会』に発展。後に靴屋になってから、同会をヒントに販促活動を行ったことは、次回に述べたいと思います。
バックボーンに

他には、ショーウインドーのディスプレイのお手伝いにも、よくかり出されました。今はあまり気にしないようですが、あの頃の模様替えの作業は、お客様がいらっしゃらない真夜中が常。業者に頼んだりしないで、すべて宣伝部の手で行いました。DMの発送も期間が限定されているので、徹夜になることもしばしば。両者が重なって、残業200時間を越した記録は、いまだ破られていないと聞いています。もっとも、半分くらいは寝ていたような気も…。
 マッチ棒を使ったプライスカード作りも、印象に残っています。黒のポスターカラーを溶いて、マッチ棒の軸の部分を浸し、これを筆代わりに数字を書くというもの。すると独特の書体が生まれます。試してみれば分かりますが、角を続けて書くことができません。4なら1本づつ区切って3本の線を引くことになるし、0なら()というように、括弧を2回書くという具合です。
 とても面白い効果がある上、字が下手な人でも割合うまく書くことができる。『すみれ会』同様、このアイデアも三愛を離れてから、アレンジして使わせてもらったものです。

 しかし、こう説明すると遊んでいるように思えるでしょうが、実際は大変な作業でした。西銀座店・4丁目店双方の全売場から、いくらのカードを何枚とものすごい数の依頼が来ます。とにかく宣伝に関することは、すべて宣伝部の仕事。まだ広告業界も黎明期で、グラフィックデザイナーやコピーライター、イラストレーターなどの分業化が曖昧な時代でした。その分、私も色々勉強することができ、DMコピーなども随分書かされた記憶があります。
毎年5月第3木曜日に集まる三愛宣伝部OB会の「三木会」。後方で立っているのが長岡造形大学学長の鎌田豊成氏。

 私が三愛に勤めていたのは、結果的には2年くらいのものでしたが、その後の靴屋人生におけるバックボーンとして、この時の経験が大いに役立ちました。前述の通り、ヒントにしたり真似してみたりという部分もありますが、何よりお客様への訴求の仕方や、商売の在り方というものを教えてもらったように考えています。
商いの原点


1959年、銀座四丁目の三愛
その原点は、市村社長の“もち竿の訓示”であり、さらに三愛の“4丁目土地購入”のエピソードがあります。これは知る人ぞ知る実話で、三愛が長らく全国1位の地価を誇っていた、銀座4丁目角地を入手した時に起きたことです。
 雪の日に来店したお年寄りの女性の汚れた足袋を、従業員が気遣いきれいに拭いてさしあげた。実はこのお年寄りが地主さんで、後日売買交渉に行ったところ、「あのような社員教育をしている会社なら」ということで念願の土地を売ってもらえた、という経緯。
 まさに商いの神髄を教えられる話しであり、実際私自身、靴屋になってから同じような経験をしています。
 あれは私がタケヤに入社し、所沢店の店長をしていた時のことです。伊藤君という、熱心に仕事をするスタッフがいました。ご近所に高山さんという奥様がいて、よくご来店いただき、いつも彼が至れり尽くせりの接客でお得意様にしていました。
 そのうち、タケヤが西友ストアーに出店を希望。交渉中に判明したことですが、この高山さんのご主人が、当時の西友の幹部のお一人だったのです。夫人から日頃「良い店」と聞いていたということで、契約はあっさり成立。田舎の小さな靴屋ごときが、言わば大西武にすんなり入り込めたのも、従業員の日常のサービスが決め手でした。
 この2つのエピソードからも分かるのは、商人としてのちょっとした行動が、企業の命運を左右する事態につながる怖さ。もしかしたら、人は皆、そういうチャンスを知らず気づかず逃しているのかもしれません。だからこそ日頃の行動が大切なのです。人と人との出会いを、生かすも殺すも自分次第。何気ない言葉や態度で、その後の展開が変わってくるのは、サラリーマンやオーナーなどの立場の違いを越えて、万人共通だと思います。偉そうに言うわけではありませんが、この年になって初めて悟ることも、沢山あるということです。
 とにもかくにも素人ながら、私は三愛宣伝部員として忙しく楽しく過ごしてはいました。反面、芸大や美術学校などで学んだこともなく、デザインやイラストをはじめとするプロフェッシェナルとしての技能もなく、結局ただのお手伝いでしかなかったのも事実です。もともと三愛入社は父の希望によるもので、先の見える状況ではありませんでした。
 そんな時でした、中学生時代からの親友・岸沢昭から、ある相談が持ちかけられたのは。そして彼の誘いこそが、私にとってははるかに続く靴屋人生への、第一歩となったのです。
(続く)
(構成/(株)エン)