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好調企業の秘密 ヒロカワ製靴

ヒロカワ製靴 (東京・墨田区/靴製造)

グッドイヤーに絞ったモノづくりとブランディングで、オリジナル「スコッチグレイン」をブランド化する

世間では「ヒロカワ製靴」という名前よりも、「スコッチグレイン」というブランド名が知られている。選りすぐった上質な牛革を使い、グッドイヤーウエルト製法にあくまでこだわった高級紳士靴。通常単価は3〜6万円と安くはないが、男性なら一度ははいてみたい逸品である。
ヒロカワ製靴は大きな会社ではない。従業員数は約170名、主要工場は本社のある墨田区堤通で、ここで製甲以外の工程を行う。OEMを受注せず、すべてをスコッチグレインの売上げでまかなう。年商は26億3000万円(2015年8月)で、ここ数年着実に伸びている。
多くの靴メーカーの現状は、自社ブランドだけではなく、OEMやPBに頼らざる得ない。だが、果たして本当にそうなのだろうか。ヒロカワ製靴とスコッチグレインの歩んだ長い道のりは、やろうという強い意思があれば必ず成功することを教えてくれる。

アパレル企業のOEMを手掛ける

話は戦後すぐの時代にさかのぼる。廣川雅一社長の父で創業者の廣川悟朗氏が上京し、親戚の靴工場とそのショップを手伝い始めた。やがて世は高度成長の時代に移り、「つくればつくるだけ売れる」という活気のある時代を迎える。機械化も始まり、会社は1964年に独立。ヒロカワ製靴の誕生である。
職住一体となった環境の中で、廣川雅一社長は成長した。工場では、紳士靴を中心にセメント、マッケイ、グッドイヤーなど多くの工法を手掛けた。75年、廣川社長が入社。靴の学校で勉強したい、もっと広い世界を見てみたいという希望はあったものの、家業が多忙を極めていたことが後押しとなった。
70年代から80年代は、日本のファッション業界が最も輝いた時代だったのかもしれない。入社して2〜3年後、廣川社長は次代を担う大手アパレル企業「ジュン」と出会う。ヨーロピアンスタイルを提案し、流行のバギーパンツに合わせたヒールのあるストレートチップの依頼があった。ヒロカワ製靴はここから、アパレルのOEMを始めた。納品は月1回、サイズ違いの10足をワンセットとして発注が来た。生産量はあっという間に同社の採算量の半分を超える月産2000~3000足となる。同社のモノづくりの確かさは業界に広まっていき、イトキン、イッセイミヤケ、ビギ、ヨージヤマモトなどの日本のアパレル業界の中核を担う企業が次々とヒロカワ製靴に発注した。
「ジュンでは、靴づくりができる職人がデザイナーを担当していました。すべてグッドイヤー製法で、エナメル、ガラス加工などさまざまな革を使ってつくりました。ですが、このOEM全盛期は10年間くらいだった。その日は、突然やってきたのです」(廣川雅一社長)
そのシーズン、来るはずのサンプル発注が来なかった。次シーズンの指示がもらえないと困るというので、廣川社長がジュンに問い合わせに行くと、いつものデザイナーの席に違う人が座っていた。
デザイナーが変わると注文先・仕入先が変わるということがあるんだと思いながら、これまでの経過を説明すると、「明日サンプルを持ってきてよ」という。聞けば他の注文先は、セメント製法ゆえに即納できるそうだ。当時同社では毎月数千足を納品していて、ジュンの仕入れ金額では常に上位10社の中に入っていた。困っていると、ジュンの佐々木忠社長(現会長)が、「じゃあ、自分でブランドをつくってみたら」といった。ここから着想を得て生まれたのがスコッチグレインだった。1978年のことである。

博報堂との出会いで広告宣伝を始める

アパレルからのOEMの注文は、潮が引くように少なくなっていった。問屋も、知名度の低いスコッチグレインを取ってはくれなかったし、百貨店にも置くことができなかった。翌年社屋を墨田区向島に移したが、状況は変わらない。そんなある日、博報堂の営業マンがやってきた。2回ばかり週刊誌に広告を出したのを見て、営業に来たのだ。だが、先代の社長は「最初菓子屋かと思った」というほど、広告宣伝方面の知識はなかった。営業マンが商品を持ちあげるのですっかりウマが合い、いつの間にか「スコッチグレインを売り出すにはどうしたらいいのか」と相談していた。
「まずはカタログをつくって展開できる場所を増やそう」というアドバイスをもらった先代の社長は、さっそく「トラディショナル」というくくりでデザインを絞ったものをつくろうと考えた。そのためにサンプルシューズをつくるという熱の入れようだった。次は型押しシリーズで、またカタログをつくった。スコッチグレインというのは、革の上に穀物を押しつけたような、型押し柄をいう。ブランド名もここから着想されている。
広告掲載も始めた。『モノマガジン』『グッドイヤープレス』『メンズクラブ』『GEO』などに次々に広告を掲載。当時はまだメンズクラブが1ページ100万円だった時代だったが、広告予算は負担だったに違いない。だが、しばらくすると問屋が「扱ってみたい」と言い出した。某百貨店のPBを生産していたが、スコッチグレインの知名度が上がるにつれて某百貨店も「入れてみたい」といい始めた。広告の力が勝利したのだった。
「当時、自社ブランドを持つメーカーはありませんでした。百貨店のPBやOEMをやっていれば売れた時代です。広告を掲載した雑誌をもってお客さまが百貨店に行くようになって、それではうちも扱ってみようか、となったわけです」
博報堂との付き合いは80年からで、90年からは年間予算をとって新聞や雑誌を中心に広告掲載した。それは、現在も続いている。

アウトレットに出店とイベント開催

スコッチグレインは卸、百貨店ルートで売れ始め、量もデザインも増えていった。特に自社で在庫のリスクを負ったことが、広がりに拍車をかけた。つくる側から見れば、OEMだと発注がなければ製造できないが、在庫を持っていれば注文にすぐに対応できて売りやすい。問屋や百貨店には在庫を持たなくてすむので、歓迎される。90年には、新橋に直営1号店をオープンさせた。卸だけだとつくりたい製品と価格の兼ね合いが、理想通りにはいかなかったからだ。
だが、バブルが崩壊して景気はどんどん悪くなっていった。取引先から新製品の入れ替えなどで廃盤品が戻ってきて、次第に在庫が溜まるようになってきた。
そこで始めたのが、セールである。もともと1980年から年2回のガレージセールを実施していて、少しずつ人が集まるようになっていた。次第に会場を借りて本格化したが、在庫は増え続け、2000年にはピークに達してしまう。そんなとき、「御殿場プレミアム・アウトレット」から出店の打診が来た。区画は20坪くらいのところで広くはなかったが、製造から納品まで「報道最前線」のテレビ取材を受けたために知名度が上がり、かなりの売上げを上げた。11月になると、「りんくうプレミアム・アウトレット」の話があり、ここにも出店することにした。倉庫いっぱいに溜っていた在庫は1年でなくなった。現在は佐野、土岐のプレミアム・アウトレットにも出店、等級ごとに選別した革でアウトレット限定品をつくっている。スコッチグレインがアウトレットに先に出店していたのは、このような事情があったからだ。
新橋店は銀座に移転し、06年に大阪、11年にエキュート上野、12年に東京スカイツリータウン・ソラマチへと4店舗を次々にオープン。アウトレット店も含めて8店舗とも免税店にして、ことにソラマチ店や御殿場・りんくうタウン店ではインバウンドニーズも取り込んでいる。

広告からホームページとショップへ導く

モノづくりでは、「自分たちでつくったものしか販売しない」というスタイル。外注もしてみたが、仕上げにばらつきがあり、うまくいかなかったという。職人を100名抱え、製甲以外の工程をすべて行う。甲革は世界中から良質なものを仕入れ、個体差もあるので、廣川社長が自分の目で見て等級分けに選別したものを、プロパーとアウトレットに使用。当社の同社の「手入れをして育てる靴」には、水性染料で染めた、ナチュラルな仕上げの革が必要なのだ。品質の安定をたもつためライニングは、バングラディシュのタンナー1社から仕入れている。中底、本底もイタリアのタンナー1社から仕入れ。最初は商社を通してだったが、今は直接購入している。
2000年に、生産の全てをスコッチグレインにし、製法もグッドイヤーのみにした。07年から広告の質を変え、新聞・雑誌等の媒体を見たときにホームページに、さらにはショップに行きたくなるような導線計画を立てた。売上げをあげていくには生産、広告、販売の3つの軸を同時に高めていかなくてはならないという考え方で、「理解させるのではなく、共感してもらう」コミュニケーションづくりだ。一昨年、創業50周年の年には中央紙に全面広告を掲出した。
「広告費はかかりますが、変化のあるときに広告を出すんです。ライセンス料金を払う必要もないですし、30年間モデルチェンジもしていませんから、その開発費用もかからない。うちには、企画室がないくらいです」
銀座店をリニューアルし、照明も落として雰囲気のある店とした。このリニューアルは好評で、アウトレット店舗も1年かけて順次改装してきました。販売スタッフの教育にも力を入れており、社内でロールプレイング大会も開き、年2回覆面調査も行っている。

2020年までに向上を拡大、日産500足に

スコッチグレインのファン層が広がっている。7月の銀座店のセールでは、接客1時間待ち、2時間待ちの状況となり、1日に900万円の売上げを計上した。遠方から仕事を休んで来た人もいたという。父親が新社会人になった息子にスコッチグレインを購入するシーンも、よく見られるようになった。先輩から聞いてやってきたサラリーマンや、「日本に来たときはいつも寄る」という海外のビジネスマンもいる。パッチワークのような「スパイダー」は、「すみだ地域ブランド戦略」の一環としてつくられたもので、38もの小さなパーツを縫い合わせている。今ではすっかり東京ソラマチの看板商品になり、海外に多くのファンをつくった。
「これ以上ショップを増やすことはしません。会社を大きくするな、こだわってここでできることをしろというのが、先代の教えでもあります。お客さまがいらっしゃるから、そのニーズを聞きつつここまでやってこれたのだと思います」
現場には新しい機械が入り、20年には本社の敷地を倍にし、散らばっている加工場を一カ所に集め、日産500足にまで生産力を高めていく計画だ。廣川社長の長男、次男とも入社し、後継者の心配もすでにない。
                   
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スコッチグレインの成功は、モノづくりとブランディングの両立にある。どんなによいモノをつくっても、売れなければ埋もれてしまうだけだし、ブランディングに成功しても本質的によいモノでなければやがて飽きられてしまう。イメージを伝えていくことがどれほど大切か、スコッチグレインの例を見るとよくわかる。
スコッチグレイン成長のポイントは、効果的に広告媒体を利用したことによる。さらに、積極的に催事を行ってきたことも、知名度を上げるのに役立った。最初販売ルートがなかったのは、スコッチグレインも同様だ。ブランド力をあげるのには長い時間がかかり、それまで企業の忍耐力があるかどうかが問題になる。もし中途で「売れないから」とやめてしまえば、それで終わりだ。
自社ブランドを持つことは、自社のアイデンティティを持つことでもある。OEMばかりでは、自社のモノづくりの限界を知り、乗り越えていくことはできない。靴業界ばかりではなく、よい技術を持っていてもブランド化することのできない企業の何と多いことか。そこに決定的に欠けているものこそ、「ブランドを育てる」ことへの視点なのである。

ヒロカワ製靴
東京都墨田区堤通1−12−11
TEL:03・3610・3737